BREGUET

ブレゲ(取扱い品目一覧)

アエロナバル、トランスアトランティック、マリーン、アエロナバル、マリーンクロノグラフなど長年培った鑑定眼で、誠実に高価査定させて頂きます。
ブレゲ
創業 大正 9 年の老舗ブレゲの質入れ・買取なら、須賀質店にお任せください

須賀質店ではブレゲ(Breguet)の時計については全てのモデルで、新型はもちろん中古品でも何十年前のモデルでも買取を強化しています。ブレゲの時計であれば、附属品や箱、布袋が無くても買取、質入れできるので、安心して須賀質店にお持ちください。

ブレゲの時計にはトラディション、クラシック、タイプXX、アエロナバル、トランスアトランティック、マリーン、クィーンオブネイブルズなど、多数の種類の時計があります。いずれのモデルも多数の買取実績、質入れ事例があるので、買取や質入れの際はぜひ須賀質店にご相談ください。また、ブレゲには複雑機能搭載のトゥールビヨン、パーペチュアルカレンダーパワーリザーブ、グランドコンプリケーショントゥールビヨンといった特殊時計もありますが、これら複雑機能搭載のブレゲの時計も須賀質店では取扱いの例があるので、他店で買取査定額を出せないなど断られた方はぜひご相談ください。

須賀質店は、創業大正9年 まもなく創業100年になる質屋で、長い歴史の中で全国の高級時計オークション市場の落札結果を収集、分析して業界最高値を提示するシステムを作り上げました。また、海外のオークション市場や外国人バイヤーの情報も取り入れて、業界最高買取価格、質入れ価格の提示に努めています。

ブレゲの時計は複雑機能の付いた時計は、その希少性から買取査定、質入れ査定とも高値が期待できます。また、伝統ある時計メーカであるために買取価格は高値安定していますが、モデルによっては高価査定を付けずらい商品もあるので、詳しくは須賀質店スタッフまでご相談ください。

須賀質店は、都内に3店舗、池袋、渋谷、五反田と、いずれも駅から徒歩圏に店舗があります。他社で低い査定価格しか付かなかった、不調を理由に断られた時でもあきらめずに須賀質店に相談してみてください。ブレゲの高価買取、高価質入れをご希望であれば、須賀質店にお問い合わせくださいますようお願いいたします。

ブレゲの査定相場

下記のブレゲの買取査定額は、新品商品(全く使用していない商品で傷なし、保証証有効期限内、箱あり)の買取上限価格です。 商品の状態、人気度、付属品の有無によって、買取査定額は上下することがあります。 そのために、下記のブレゲ買取査定額のとおりに買取をできない場合がありますので、下記の買取査定額についてはひとつの参考としてご覧くださいますようにお願いいたします。

※質入れの場合のブレゲ質入れ査定額は、預かり期間中の査定相場の下落を考慮するので、買取査定額より10%から20%若干下回ります。

ブレゲ 取扱い品目一覧
マリーン
MARINE
タイプXXI
TYPEXXI
アエロナバル
AERONAUTBARU
トランスアトランティック
TRANSATLANTIC
ブレゲの査定のポイント
ブレゲ(Breguet)について

ブレゲは、1747年にスイスのニューシャテルで誕生したアブラアン・ルイ・ブレゲによって設立された時計メーカーです。アブラアンは時計技術者として卓越した才能にあふれていて、トゥールビヨン、パーペチュアルカレンダー、ミニッツリピーターなど、様々な複雑時計機能を開発してきたために、「時計の歴史を200年早めた技術者」「時計界のレオナルド・ダ・ヴィンチ」等と称された天才です。

アブラアンは、スイス ニューシャテル地方に先祖を持つ名門の家系で、ジョナ・ルイ・ブレゲの長男として誕生しました。父親が早くして亡くなり、母親の再婚相手が時計職人であったこともあって時計業界に興味を持ったアブラアンは、14歳の時に学校を中退して、レ・ヴェリエールの時計工房に弟子入りして時計技術者になるべく経験を積み重ねます。
その翌年、フランスのヴェルサイユに移り時計技術者としての修業を継続する傍らで、親睦を深めていた宗教家であるマリー神父から機械工学、天文学、光学、物理学等の教養を授かり、こうれらの時計製作の技術とはあまり関係のなさそうな知識が、アブラアンの生涯を通じて独創的な時計開発に大きな影響を与えました。

時計ブランド ブレゲの設立

1775年、ブレゲは28歳の若さで、パリのセーヌ川のほとりのシテ島 ケ・ド・ロルロージュに自身の工房を設立し、時計ブランド「ブレゲ」を立ち上げました。そして同年、パリの富豪の家系出身の女性 セシル・マリー・リュイリエと結婚することとなります。
結婚した翌年には最初の子供 アントワーヌ・ルイが誕生し、自身の独立~結婚~第一子の誕生と、幸せの絶頂にあったブレゲですが、2番目、3番目の子供は相次いで病気で亡くなり、1780年には妻のセシルも28歳の若さでこの世を去ってしまいました。深い悲しみに暮れるブレゲは、このために2度と結婚することは有りませんでしたが、悲しみと苦痛という負のエネルギーを糧にしてブレゲの時計開発は大きく前進し、その後「パーペチュアルカレンダーの開発」「自動巻き機構の実用化」につながるのでした。

マリー・アントワネットからの依頼

ブレゲの活躍については天才的な技術面はもちろんのこと、美的な観点でも、多くの人々に賞賛されていて、その活躍の内容はルイ16世やマリー・アントワネットなど、当時のヨーロッパの貴族、富豪、エリート達も知るところとなりました。
1783年に、ルイ16世の王妃 マリー・アントワネットから、ブレゲの元に時計製作のオファーが入ります。このオファーは「金額、製作期間の制約は一切なく、出来上がった作品は時計のあらゆる機構を持つ最も優れた、かつ最も美しい時計でなくてはならない」という、実行不可能と思われるような依頼でありましたが、当時のブレゲは全ての仕事を中断してこの依頼に応じるべく開発を始めました。
しかし1789年のこと、フランス革命が勃発し王政が廃止に追い込まれることとなり、この流れの中で王政にかかわりのあった者も粛清を受けることになります。ルイ16世やマリー・アントワネットとの交流もあったブレゲも、当然この粛清の対象になり、1793年にフランスから故郷のスイスへの帰国を命じられることになりました。